現状を突破する糸口、ということに「科学」という道具を使うとき、どのような注意点が必要か、と私は考えます。

 科学は「懐疑主義」と「実証主義」という方法論を用いることで、なるたけ個人の主観的要素を排除し、純粋に客観的事実を追求することに成功しました(これに対しては異論が予想されますが)。厳密さを求めるため、科学が対象にできるものはまだまだ限られています。(究極的には全ての現象を科学的に説明することなのでしょうが)

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それでもあえて唯物的世界観(科学的世界観とは必ずしもイコールではない)のもとに社会現象や文化などを説明することはあってよいと思いますが、それが証明しようのない仮説であることは自覚するべきだし、それを「科学」とよんでよいものかどうかはためらうところです。唯物的に説明する、というルールを守れば、仮説は無数に立てられるのですから。とくに差別につながるような仮説の言及に関してはもう少し配慮があるべきと率直に思いました(せめて断定口調をやめるとか)。

 私が科学に対してこうした慎重な態度をとっているのは、おそらく「優性学」に対する警戒からでしょう(絶対にくり返してはならない科学の引き起こした悲劇です)。私だけでなく、多くの科学者が、優性学の事件を過去の教訓として、科学(というかその言葉が持つ強い説得力)が「主義」「思想」を煽動する原動力となることを恐れているはずです。科学が現実の困難を解決する道具として使われることはいっこうにかまいませんが、科学が逆に我々に指図するような関係になることはさけねばなりません。(また抽象的なことばかり、といわれてしまいますが、これはとくに実現論の批判というわけではなく、私が科学に対してもっている考えです)

 優性学に関してはじっくりと議論すべき題目であると思うので、いずれやりましょう。

 進化についてのどのような意見が御所望なのかよく分からなかったのですが、できる限り答えていこうと思っています。具体的に質問をくだされば。

飯野均