2012年08月

現状の「科学的事実」と言われているものの怪しさ

学生時代、研究室で実験系を組むときに、いかにすれば望み通り(仮説通り)の実験結果が得られるかに研究室のメンバー全員が(教授の指導を受けながら)知恵を絞って実験を繰り返している姿を見てきました。恣意的にほとんどのパラメーターを固定し、あるパラメーターのみを変動させる。極端に言うと、「自然」をたたいたりひっぱったりつねったりして望み通りの結果を吐き出させる、といった感じです。

プロの研究者もどうやら似たようなことをしているらしいことを知り、一学者が勝手に「定義」したものを信じるという事にすっかり逡巡するようになってしまいました。

また、現在「定説」といわれている説が、もしかして恣意的な大きな前提の上に成り立っているのではないかと、研究室を離れて外から見ると、あらためて思います。

だからと言って、認識を何も固定せずに議論は進められないのですが…


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進化論における「自分教」

『原猿・真猿の本能』について、考えてみたいと思います。

 婚姻様式の必然性について、よく「自分の種を確実に残すために」という表現が使われます。生物学の中にもそのような解釈を施す向きが、まま観られるようですが、この理解は正しいでしょうか。

 各個体はひたすら、本能(真猿では加えて共認圧)に従い行動します。生存すること、生殖すること、自集団を統合・存続することは、本能や共認からの‘所与の’追求対象です。ここで(各個体が)、「自分の」子孫を残すための判断を下すことはありません。

 進化論にいう淘汰とは、そのように各個体がそれぞれ行動した結果、つまり‘本能構造’や‘共認内容’が‘総体として’環境適応的なシステムであるか否かによって、決定付けられるというべきでしょう。

 「種を残す」ことは各個体に試されているのではなく、正に‘種として’試されているのです。これを「自分の種」の存続を目指す力学として説明するのは、恣意的な解釈ではないかと考えます。

今井靖明続きを読む

「利己的な遺伝子」を切開する 2

だとすれば、彼が対象にしているのは、既に無数の同類他者が存在していることを大前提にして、かつその中で彼が注目する遺伝子座の多数の変異遺伝子たちが、一切それ以上は変異を起こさないと仮定した上での(上述した様に、そんな状態は現実には存在しない、頭の中の幻想にすぎないが)、その後のその遺伝子座に存在する多数の変異遺伝子たちに働く淘汰現象だけだと云うことになる。

また、淘汰圧は個体→ゲノム→全遺伝子に対して働くのであって、ある特定の形質に関わる遺伝子群に対してのみ働くなどと云うことは、在り得ない。(例えば、ある種の鳥の尾の長さは、その鳥の筋力をはじめ全形質とのバランスの中で、決められている。)ところが彼は、ある特定の遺伝子座に存在する多数の変異遺伝子たちに働く淘汰現象しか、考えることができない。しかし、それは現実には殆ど在り得ない「淘汰現象」である。

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「利己的な遺伝子」を切開する 1

ドーキンスは、まず始めに定義する。「厳密にいうなら、この本には、いくぶん利己的な染色体の大きな小片と、もっと利己的な染色体の小さな小片という題名をつけるべきであったろう」・・・「私は、遺伝子を、何代も続く可能性のある染色体の小さな小片と定義して、この本に『利己的な遺伝子』という表題をつけたのである」・・・「私は自然淘汰の基本単位として、従って利己主義の基本単位として、遺伝子を考えるほうがいいと述べた。私が今おこなったのは、私の主張が必ず正しくなるように遺伝子を定義することである。」
要するに、長期に亙って変異することのない遺伝子を仮定したいと云うことらしい。
そして又、こうも云う。「遺伝子を、少なくとも潜在的に長命・多産性・複製の正確さという特性をもっている最大の単位と定義する。」そして、つい筆をすべらせて、こんなことまで云っている。「遺伝子は・・・・、充分に長い染色体の一片として定義される。」・・・「実際の自然淘汰の単位として最大のものである遺伝子は、ふつうはシストロンと染色体の中間のどこかに位置する大きさであることが分かるであろう」

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遺伝子の共同体

真っ当な分子生物学者なら、生物の維持と進化の単位(主体)を、一つの細胞内に存在する全DNA(人間の場合、この全DNAの中に約十万の遺伝子が組み込まれている)orゲノムに置くだろう。その根拠は、少なくとも二つある。(補。細胞質遺伝etc.DNA変異によらない、全く別の進化様式が存在することは、間違いないと私は考えていますが、ここでは便宣的にDNA方式に限定して、話を進めます。)

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