トラン・ファンの科学実験は、挑戦から始まった。上司であるプリンストン大学の物理学者ロバート・オースティンが、オースティンにつくれないような迷路をつくってみろと要求したのだ。

もちろん、この挑戦は単なる思考実験だった。ファンは本当にヴェルサイユ宮殿の庭の迷路のような大きな生け垣を植えて、そのなかにオースティンを放り込もうというわけではなかったのである。

それでもオースティンの教えを受ける大学院生のファンは、この課題に真剣に取り組んだ。彼はまず、オースティンに簡単な迷路を解いてもらった。オースティンがどんな戦略で迷路を通り抜けるのかを知るためだ。

「先生は行き止まりに当たると、来た道を戻っていました。迷路を通り抜けるために誰でもやる方法です」と、ファンは言う。「そこで考えました。行き止まりのない迷路だったら何が起きるだろうか、とね」

ファンが描いていたイメージでは、複数の間違った道が合流してひとつの間違った道になる。このため、どれほど我慢強い挑戦者であっても、絶望の無限ループに放り込まれてしまう。「こうした迷路のなかにいると、自分がどこにいるのかわかりません」と、オースティンは言う。「迷路を通り抜けるためにどのくらいの時間が必要なのか、中にいるとわかりません。堂々巡りになってしまう可能性もあります」
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◆細菌はコミュニケーションする
実際のところ、このゲームが本当に想定しているプレーヤーはオースティンではない。それどころか、迷路の設計は「有機体はどのように問題を解決するのか」という、より大きな問題の答えを見つけるための一歩にすぎない。この研究室の迷路競技の本物の“選手”たちは、バクテリア(細菌)なのだ。

オースティンやファンたちは、微生物であるバクテリアの協力しあう能力について研究している。ファンは「細菌が本当はどのくらい“賢い”か調べる」目的で迷路を使ったテストというアイデアを思いついたのだと、オースティンは説明する。

興味深いことに、最も単純な生物のひとつである単細胞生物のバクテリアが集まると、個別のパーツを足し合わせるだけではなく、問題解決能力のあるユニットをつくって協力して働くことで知られている。

例えば、人間の体内の免疫システムから自分たちを守るために、口のなかにいる細菌は組織化してフィルム状のものをつくる。これが歯垢だ。土壌に住む粘液細菌の一種であるミクソコッカス属は、糸に似た細菌のネットワークをつくり、群れになって“狩り”をする。

そして大腸菌を含む多くの細菌は、近くにいる細菌が自分の仲間なのか敵なのかを探るために、互いにコミュニケーションをとることができる。同種の菌の密度を感知するクオラムセンシングと呼ばれる、ある種の化学物質を交換するプロセスを利用するのだ。

◆迷路の脱出にも成功
ファンは、自分がつくった迷路をバクテリアが通り抜けられるか調べたいと考えていた。そこで次の段階として、ファンが設計した曲がりくねった通路を、同僚が小さなシリコンのチップにエッチング処理で刻み込んだ。そして中央に10個ほどの大腸菌を閉じ込め、大腸菌が好きな食べ物を大量に流し込んだ。ファンによると、「チキンスープのような匂いがする」濃いスープ状のものだ。それを顕微鏡で観察した。

学術誌『Physical Review X』に受理された論文でファンらの研究チームは、大腸菌が食べながら繁殖して迷路を通り抜けられることを示している。最初は10個だった細菌は、実験が終わるときには100万個以上になっていたという。

大腸菌は実験の際に食べ物のある“道”を進みながら、スープがたくさんあるこれまで通ったことのない道に進みたがる傾向があった。それが最終的に、迷路からの脱出を助ける結果になった。複数世代にわたる細菌の1パーセントが集団で迷路の脱出に成功するまでの時間は、約10時間だった。あまり速くないように聞こえるかもしれないが、細菌がでたらめに泳ぎ回った場合と比べると5倍は速いのだと、ファンは指摘する。

◆バクテリアに「知性」はあるのか
バクテリアが迷路を脱出するメカニズムがどのようなものであるにしろ、この実験からはバクテリアがどれだけ“高度”な生物であかという疑問も浮かんでくる。「バクテリアは本当に素晴らしい問題解決能力をもっています。食べ物を見つけたり、迷路のようなな構造から脱出したりといった能力です」と、ファンは言う。「それが“知性”と呼ぶべきものなのかは、わたしにはわかりませんが」

生物学者たちはバクテリアに対して、「知性」という言葉を使うことは避けている、その言葉の意味について合意がないからだと、シャーフは指摘する。

この言葉は、ヒトのような能力を意味しているといった具合に間違った解釈をされることが多いのだと、シャーフは言う。科学実験における「知性」とは相対的なものであり、テストされるスキルによって違ってくる。「ヒトよりもハトのほうが好成績を収めるテストだってありますから」

シャーフは自分の研究を説明する際に「知性」といった抽象的な表現ではなく、迷路を脱出するためにかかる時間など、測定可能な量で示すことを好む。「より具体的な言葉を使うほうがいいのです」と、彼は言う。「わたしは自分がしたこと、計測したことを明確にするようにしています」

リンクより抜粋

 匿名希望